ブログ
2010年5月28日

ささやかな話

昔タンザニア人の女の子とほんの少しの間だけ一緒に住んでいたことがあります。
仕事がなくて何人かで大きな町に仕事を探しに出て、よりあつまってひとつの部屋にいました。アルメニア人の男の子とブラジル人の男の子とも一緒でした。夏ですごく暑かったのを覚えています。
そのころちょうど25歳の誕生日で、仕事の面接に行ったらたまたま受かって、帰り道自分でパン屋さんでデコレーションされたケーキを買って部屋に帰りました。その子に「実は今日誕生日なの。一緒に食べよう」とそれを差し出したら「どうして朝から言わないの!」と怒られて、それからHappy Birthdayの歌をうたってくれました。
私はHappy Birthdayの歌が3番まであることを知らなかったし、彼女のつくるタンザニアのチキン料理がとてもおいしいこと、それから食べる時は右手で(フォークではなく)食べたほうがおいしいことも知りませんでした。
彼女は私の名前をすごく気に入っていて何度も何度も繰り返してつぶやいたり、寝る前に濃いインスタント珈琲を飲む私の習慣をいつも不思議がっていたりすることを思い出します。私たちが着替えるとき(まるで女王陛下たちが着替えるみたいに)恭しく部屋を出て行ってくれるアルメニア人の男の子たちを「へんなの!」っていつまでもふたりで笑ったりしたこと。その部屋にいる時はひそひそ話すか大声で笑うかどちらかで、壁中についた天使のオーナメントが気持ち悪くて眠れないって告白したら「なぜ!エンジェルなのに!」と住人中にブーイングされて笑い転げたりしました。
全然違う遠く隔たった大陸から来た私たちなのに同じところもあるし、全然違うところもあるなあというのが今でもすごく不思議で、すごく懐かしい気がします。理解できるところも理解できないところもある。ほんとうは当たり前のそれを、生まれた国や大陸や、肌の色や話す言葉でよりはっきり分からせてくれた時間でした。『同じ星に住んでいて、そして文化(やそれに近いもの)が全然違うんだなあ、でも一緒に話したり笑ったりご飯を食べたりできるんだなあ』ということを骨の髄までたたきこまれたのはあの頃です。それはあまりにも大きくて個人なんかでは全然太刀打ちできないなにか途方もないものでした。
たとえば『明日の約束』がまるで出来ないところ。約束どころか明日どこにいるかすら全然あてにならないところ。明日違う国に行くから会いたいって言ったところで約束の時間に電話をしたらビーチにいたりする。仕事を探すっていってるのに日永一日お茶を飲んでいたり、すぐ違うボーイフレンドの部屋にいってしまってちっとも帰ってこなかったり。でも困っている人のためには何時間でも一緒に座り込んで悩んでくれるところ。差別された私と一緒にすごく怒ってくれるところ。
『普通』って全然『普通』じゃあないんだな ってほんとうにしみじみ思いました。電車が時刻表どおり来るのが『普通』なんて、約束した事が必ず(と言っていいほどの頻度で)実行されるなんて、お金を払ってくださいって言ったら払ってくれるなんて国、日本以外ぜんぜんないんじゃないの!?と心から思って、その印象は今も変わらずそのままです。(多分親友は「ドイツも!」って主張するけど)
日本人は『普通』っていう言葉が好きですよね。『普通こうするでしょ』『普通しないでしょそれ』ただ生きていても仕事をしていてもよく聞きます。
最近、『絶対貧困』石井光太 という本を読んで、国に帰っても仕事がないんだよねとつぶやいていた彼女を思い出して、それは私が思う『仕事がない』とは全然違う意味なのではないかと、ずいぶん経った今もういちど思いました。同じものを見ていたようでまた全然違う景色だったのではないかと。(彼女の名誉のために言うなら彼女はとてもエリートだったし、彼女自体がその本と重なるわけではないのですけど)
日本は『皆が同じものを食べて生きているんだと信じられる』稀有な国です。でもそれって全然『普通』じゃないことなのかもしれません。
日ごろできるだけ環境へのインパクトを少なく、自分を含め生物ができるだけ健やかな環境とは、ということを考えながら仕事をしていたりするわけですが、仕事って集中しちゃうと『普通』がひどく横行してしまうなあと時折しみじみ思います。『普通』って傲慢です。『普通』ってまわりを見えなくします。でも私たちは自分たちの『普通』を大きく超えて遠くまでは行けません。そんな脳みそをひっくり返してシャッフルしてくれる何かが必要になるのです。そして自分たちのちっぽけな『普通』を知るんだと思います。
環境問題や健康問題だけでなく孤独死やワーキングプアや不況や家庭内殺人や基地移設問題や口蹄疫や、ああもう、諸々!諸々!日本も問題もりだくさん!なわけで、そんな中で生きる社会人として何ができるか。もしくは私の『普通』に何ができるのか。たまには真摯でフラットで演出過多な悲劇性など一ミリも上乗せしない良質のルポルタージュを読みながら考え込むのもいいかと思います。
ちなみに前述の本を読んだところ『もの食う人々』辺見庸 を思い出しました。あの残飯のマーケットの話は衝撃的でした。ご興味ある方ぜひ合わせてどうぞ。
来る梅雨に忙しい中でも知見を広めたりする読書もたまにはいかがでしょうか。読書時間をつくるために引っ越ししようかなと考えていたりする私の、そんなささやかな話。長くなってすみません。お読み頂いた方どうもありがとうございます。
明日はエコラ倶楽部の植林にいってきます。
その模様はまたこんど。それでは。
llama